『内藤ルネ自伝 すべてを失くして―転落のあとに』(2005、小学館) [読書]
以前にちらっと、内藤ルネさんの自伝が古本で手に入ったと書きました。
内藤ルネさんは1932年、愛知県岡崎市生まれ。中原淳一氏に憧れて1952年に上京し、氏が主催していたひまわり社の『それいゆ』編集部員として働き始めました。その後、同社から1954年に創刊された『ジュニアそれいゆ』でイラストレーターとしてデビュー(正確に言うと創刊号の準備号があって、そこがデビュー誌となるそうです)。この時の動機については、このように書かれています。
「…私たちは、10代の頃に憧れる奇麗なものや素敵なものが、戦争によってなにもかも失われた世代です。
(中略)
やっと戦争が終わり、美しいものに飢えていたなか淳一先生が創刊なさった『ひまわり』や『それいゆ』は、まさに焼け跡に咲く大輪の花でした」(29頁より)
『ジュニアそれいゆ』の看板イラストレーターとなった後も、『りぼん』などの少女雑誌の付録、インテリア小物などのデザインを次々と手がけ、一時代を築き上げた方です。本書によると、それまでは「上品で美しい」女の子デザインが主流だったのが、ルネさん以降は「元気でかわいい」になって定着したとか。
本書にも書いてありますが、内藤ルネのデザインは良く知られているが、その名前を知らない人は多いだろうとのこと。確かにこういう小物だと、作者の名前が入るところがありませんもんね。ちなみに「ルネ」はフランスの男性名ですが、内藤ルネさんも男性です。
この内藤ルネさん、もの心ついた頃には女物の着物を着ること、また、人形で遊ぶことが好きで、初恋の相手は実のお兄さん、その次は学校の体育の先生、その次は下級生の男の子。東京で成功した後は、常にパートナーの男性と一緒に暮らしていたということ。
ルネさん、同性愛者というよりも、精神的に女性だったのでしょう。今で言うとGID(性同一性障害)ですが、少なくとも自伝には深刻に悩んだり、迫害されたりという話は書かれていません。
それにしてもこの自伝は、素晴らしい一冊です。輝くような物語と言葉がぎっしり詰まっています。しかし、特にわたしが素晴らしいと感じたのは、表題にもある「すべてを失くして」のところです。本書第七章「地獄の10年」は、成功を重ねて億万長者となったルネさんとパートナーの男性が、バブルの末期に詐欺に遭い、財産をほとんど全て失ってしまうところから始まります。被害総額、実に7億円。
最初にプレッシャーになったのは、不動産を処分した後に住む賃貸物件を借りる事ができなかったこと。立ち退き日は迫るものの、50代と60代の自由業の男性ふたり組、物件の貸し手がいません。
そしてパートナーの男性が、19歳年下の男の子を養子にすることにした、という話。詳細は語られていませんが、どうやらルネさんとパートナーの「トンちゃん」の恋愛関係は終わっており、
トンちゃんとその男の子「よっちゃん」が恋愛関係になり、日本の法律では同性結婚ができないので養子縁組することにした、というところだと思います。
失意のルネさんを最後に追い詰めたのが仕事の消滅。バブルの崩壊によってルネさんグッズを扱っていた会社はそれぞれ倒産・撤退し、20年間連載していたインテリア誌『私の部屋』は休刊。ついにルネさんは自殺を決意します。しかし。
「明日こそは、とついに最後の決断をしたその日のこと。私を慕ってくれていた年下の友達が亡くなった。自殺だったと、友人が電話で知らせてきたんです。
(中略)
自殺にいたる時間は短いらしいですね。思いつめた時間をやり過ごせれば自殺は逃れられるといいますが、それを聞いたとたん、私は思い留まったようですーーー。
生きていなくちゃいけないって。どんなことがあってもね。自分から死ぬってことはもしかして、他人に迷惑をかけるってことなんじゃないかなあと、そのとき思いました。
どんなにご無沙汰していたって、友だちがそうやって亡くなるというのは、聞かされればつらいです。私が自殺したら、残された人たちもやっぱりつらいでしょう。ましてやトンちゃんやよっちゃんはどれほど苦しむだろうか。
皮肉にも、友達の死が、それに気づかせてくれたのでした。
よっちゃんのこともね、待てよと思ったんです。
人間はね、生きていくのにひとりよりふたり、ふたりより三人、三人より四人……多いほうがいいと思ったの。
悟りなんてもんじゃありませんけどね。なんとなくそう、ひらめいたんです。
それから心がすうっと……なにかこう、静かにゆっくりと、気持ちのめぐり方が変わったように感じました。」(183-184頁)
そしていよいよ最後の住処を失う直前のルネさん達3人に、助け舟が現れます。ある雑誌の編集長が、社員寮という名目で賃貸物件の保証人になってくれるとのこと。ここぞというタイミングで奇跡のようなオファーを出したのは、何と!
日本初のゲイ雑誌『薔薇族』編集長
伊藤文學(いとうぶんがく)
伊藤氏は、本人はゲイではないのにもかかわらず、精神異常者として迫害されていた同性愛者のために『薔薇族』を創刊し、同性愛者同士の交流を促しました。また異性愛者が多数を占める世間に対して「ゲイは異常ではない」とメッセージを発し続けている人物です。
それにしても色々あった関係者の中で『薔薇族』が助け舟を出すのは唐突なようですが、伊藤さんの著書を読むとわかります。実は、ルネさんのパートナーだった「トンちゃん」は、『薔薇族』の創刊メンバーの一人なのです。(伊藤さんの著書では名前が違いますが、明らかに同一人物)
なお、ルネさんは長年『薔薇族』の表紙を描いていましたが、この件の前からか後からかは筆者にはわかりません。この「社員寮」と仕事のオファーが同時だと考えると自然なのですが。
住まい(居心地はいまいちだったと何度も書かれているものの)と、そして毎月1ページとはいえ仕事が残ったルネさん。しかも生まれて初めて男の子の絵を描くことになり、とても楽しかったそうです。しかし、マイペースな生活を数年間続けた後、突然心筋梗塞で入院。その上、「トンちゃん」までが腎臓と肝臓を悪くして緊急入院。診断結果は、両者ともに「死の可能性あり」。
この時、「トンちゃん」は病気の内容から、自分より先にルネさんが死んでしまうと思い、その前にルネさん最後の願いを叶えてあげようと決意し、病室で活動を始めました。元はと言えば財産を騙し取られる原因となった、美術館の設立です。
* * *
かろうじて手放さずに済んでいた伊豆の土地を使い、「内藤ルネ人形美術館」が2001年、修善寺にオープン。ルネさんとトンちゃんはどちらも奇跡的に回復し、退院。「社員寮」を引き払い、3人でのんびり暮らすために美術館の居住区に引っ越したのでした。
ところが、めでたしめでたし、というのはまだ早いのです。
翌2002年、東京都は弥生美術館にて「回顧展」を開いたルネさん、なんと昔のファンだけではなく、若い新しいファンを大勢獲得し、その後数年間にわたってこれまでの作品を集めた単行本が複数出版されるという「70歳の再ブレイク」を巻き起こしました。さらに2005年に二度目の個展があり、ようやくめでたしめでたしです。
長くなりましたが、この自伝が出版されることになったのもそういう経緯があってこそのことでしょう。わたくしこと管理人Kとしては、もう、ほんとに、自殺の決断をした時に死なないで良かったと思うんですね。そして妙な関係ではありましたが、長年のパートナーであったトンちゃんと養子のよっちゃん、3人が離れず、ずっと側にいたからこそだと思います。
ルネさんは2007年に74歳でお亡くなりになりましたが、その人生には頭が下がるばかりです。広い世界を見つめ、美しいものを探して、美しいものを作り出すことに喜びを感じ、また、人を愛し、人に愛されて…デザインの才能だけは、ここまで大きな華は咲かせられなかったのではと思います。
大変長くなってしまいましたが、『内藤ルネ自伝 すべてを失くして』は上記の筆者の駄文などでは語り尽くせないほどの名作です。すでに品切れとなっていますが、図書館等で見かけられたなら、是非一読をお勧めいたします。
(2010年12月16日 一部加筆しました)
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