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16年前の大地震

今日は阪神・淡路大震災から16年目。
新聞は関連記事を多く掲載し、テレビでも特集を多く放映していました。

16年前のきょう、わたしは高校3年生で、1階の畳の部屋で猫と一緒に眠っていました。6〜7キロもある大きな白黒模様のオス猫で、ハートと名付けて可愛がっていました。ちなみにうちで最初に拾って飼う事にしたミーちゃんの子供なのですが、成長すると仲が悪くなってしまったので別々に寝ていました。

そして、突然目が覚めました。

かなり早起きして通学電車に乗る毎日でしたが、そのいつもの起床時間より早く、目覚ましも鳴らず。
意識が無くても、脳や体は震動を感知していたのでしょう。
そして、揺れがきました。
小さな地震なら「グラッときた」と言うのが定番ですが、そんなのとは全く比較にならない大きな揺れでした。

音がないのが不思議でした。
家のきしむ音はしましたが、漫画の地震のシーンなんかで描いてある「ゴゴゴゴゴ」というような音はなく。
ひょっとしたら地震じゃなく、もっと恐ろしい何かなのかもしれない。
このままだと家がバラバラになり、地面もバラバラになり、世界が粉々に砕けてしまうのでは。
まだぼんやりとする意識の中で、布団を頭からかぶり、そんなことを考えていました。

数分後、揺れはおさまり、家族が慌てて起き出してくる音が聞こえてきました。
震源地から、自宅のある大阪南部まではかなり離れているので、家具が倒れることもありませんでした。
家族に合流しようとして気づくと、腕に抱いていたハートが固まっているのに気づきました。
寝ているわけではなく、全く動かないのです。
ハート、と名前を呼んで、しばらくなでていると、ようやく体が柔らかくなり、すり寄ってきました。
生まれて初めての大地震、怖かったのでしょう。
人間の自分でさえあれだけ怖かったのだから、本能を強く残している猫たちにとっては、かなりの恐怖だったのではないかと思います。

そのあと、家族が揃ってからのことはほとんど覚えていません。
学校は休みになり、テレビでは情報が入ってこないためか、同じ内容のニュースが延々と流れ続けていたような気がします。
そして学校が再開して、どうでもいいような授業を受けて家に帰ると、その間にまた瓦礫の下で人が亡くなっていました。

現地で被災した方々にとっては、悪夢のような大震災でしょう。
しかしわたしにとっては、隣の県で助けを待っている人が大勢居るのにもかかわらず、なぜ自分も含め、周囲の人々は淡々と通学や通勤電車に乗っているのか、と考えることが悪夢のようでした。

今なら助けに行く。物理的に行けない状態でも、何か助けになるようなことをする。

そう思うと共に、二度とあのような大型地震が町を襲わないよう、襲ってもクライストチャーチのように死者が出ないで済むよう、心に祈りました。

16年、早いものです。
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コメント 6

KaoriNG

Kさん、こんにちは。
16年経ちましたね。早かったような気がします。
あの日、私もしっかりと覚えていますよ。震源地からは100km以上も離れていたけど、今までの人生の中で一番大きかった揺れでした。
残った宿題を朝やろうと、5時半に目覚ましを掛け、ヒーターを付けて部屋が暖まるのを待ちました。
突然、ど~んと地響きがして、そのあと静かになりました。きっとこの間数秒だったと思うんですが、とても長く感じました。その後、ぐーっと下に下がる感覚があり、その後は左右上下にメチャクチャに揺れました。

親戚が西宮に居たので、学校を休み電話で連絡が取れないか、何度もチャレンジしましたが、次の日まで繋がらず、結局全員無事だったんですが、確認できるまでの間、生きた心地がしませんでした。

あの日から16年、あの時無事だった親戚は、一家で愛知に戻ってきました。

私も何もできなかったなぁ。年月が経つと、忘れてしまうことが多いけど、あの時の悲劇が二度と起こらないように、私も祈っています。
by KaoriNG (2011-01-18 11:20) 

管理人K(3X歳)

>>KaoriNGさん
そちらまで強い揺れが伝わっていたんですね!
わたしの家は大阪湾をまたいで30-40kmというところですが、やはり巨大な地震だったことが伺えますね。

祖父母と叔父一家は神戸よりもっと西に住んでいたのですが、最初、やはり電話が通じず、みんな心配していました。何とか話せた時は、みんな無事でホッとしましたが、近所のお寺の墓石が倒れるほどの揺れだったそうです。神戸が通過できないので、様子を見に行くのもしばらく後になりました。

あれから、仮設住宅がうちの近所(関空事業の埋め立て地)に建ち、そして、なくなっていきました。やはり何もできませんでした。反省を踏まえ、最近では義援金を送ったり、カレンダーを寄付(チャリティオークション)したりしています。

やはり何もないに越したことはありませんが、いざという時のためFirst Aidなんかを勉強したりしてもいいのではないかと思っています。

by 管理人K(3X歳) (2011-01-18 23:20) 

KaoriNG

Kさんのご親戚も、無事でよかったですね。

当時、伯父が入院していたので、家に居たのは従姉と伯母だけでした。この家族には、他に2人兄達がいるのですが、1人は名古屋に、1人は北海道に居たので、私の父が名古屋に居た従兄と2人で、行けるとこまで電車で行き、その後は徒歩で西宮入りをして、3人を連れて帰ってきました。
従姉の話では、揺れた瞬間に窓を開けた(出口確保)歳、薄暗い中で大きな砂埃が立っているのが見えたそうです。それが、高速度道路が倒れた歳のことだったと、後から知ったそうです。

仮設住宅が、Kさんのご実家の近くに出来ていたんですね。

本当に、何もできないんですが、これからを考えると、やっぱり何か少しでもできることを考えたいですね。First Aid持ってるんですけど、もしかしたら期限切れかも・・・
by KaoriNG (2011-01-19 07:54) 

Reika

16年前・・・今年が17回忌ですね。
あの日、私は(当然)何事もなく7時過ぎに目を覚まし、いつもどおりTVを付けました。そこにはまるで戦争映画のシーンのような、街が燃える情景が映っていました。
その後通常通り出勤したものの、みんなテレビのある部屋に釘付けで仕事にならなかったのを覚えています。
あの頃は、「関東には地震が来るけど、関西は地震がない」と信じられていましたね。偶然友人がご親戚の法事で京都に滞在していたのですが、地震のときに彼女が考えたのは「東京で大地震が起こって、京都まで揺れが伝わってきた!」と思ったそうです。
ちなみに私の父はちょうどそのとき入院していたのですが、主治医の先生をはじめ、多くの医師・看護師さんが関西に応援に行かれたりで、しばらく病院はかなり人手不足だったと後で聞きました。
by Reika (2011-01-19 20:50) 

管理人K(3X歳)

>>KaoriNGさん
現地入りされたんですね!

徒歩で、というところで宮本百合子著『播州平野』を思い出してしまいました。戦争の終わった直後、混沌とした日本を横断し、東京の夫に会いに行く妻の物語で、丁度その地方が山場となります。って全然関係の無い話で恐縮ですが。

仮設住宅もまた印象深い光景でした。特にわたしのような地元民にとっては、海だったところが埋め立てで荒野になり、そして仮設住宅群が出来て、というのは良くも悪くも非現実的でした。結局、神戸からはるばる移って来た被災者の皆さんに、一言もかけること無く、仮設住宅はすべて撤去されました。

今度あったら何が出来るかと考えるようになったことだけでも、自分にとっては勉強になったと思っております。First Aidをお持ちなんですね。期限が切れても、咄嗟の時には役立つと思いますよ。
by 管理人K(3X歳) (2011-01-19 21:19) 

管理人K(3X歳)

>>Reikaさん
なるほど、東京ではそのような状態だったんですね。
会社では仕事にならず、病院が意思不足になったと聞き、ホッとしました。やっぱりみんな心配されてたんですね。

関東と大災害って、昔はよく宿命みたいに考えられてましたよね。地震だけでなく富士山再噴火とか、そういうテーマのマンガも沢山あったと思います。でも関西もなにげに多いんですよね、南海地震とか東南海地震とか。

ところで震災救助ですが、一部の獣医達も現場に向かい、はぐれたり傷ついたりした動物を保護してまわっていたそうです。いざと言う時、そうやって自分で何かできることは素晴らしいと思いました。
by 管理人K(3X歳) (2011-01-19 21:29) 

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